「LotusGarden」(蓮の花の咲く庭)
Vol.5【世界が変わる】
ようこそ、Lotus Gardenへ。
こころのアトリエ・そらいろcafeのみやです。
自分が変わると世界が変わる、と聞いたとき、
私が変わる必要はないと思っていました。
でも、楽になりたい一心で進んだら、
結局は「自分が変わることで世界が変わった」のでした。
不器用な私が、毎日がすこしずつ楽になるきっかけの一つに、
ある言葉との出会いがありました。
その言葉のおかげで、「人はそれぞれなんだな」っていう
当たり前すぎることをしっかりと理解できるようになったのです。
どうしてこの人はこうなの?とか、どうしてこうしてくれないの?とか、
そういった日常のもやもやも、「人それぞれなんだ」と思えば、
少し減るように思いませんか?
そして、私には、実際にとても有効だったのです。
その言葉とは…「毒親」というものでした。
とてもショッキングな言葉ですよね。
今となっては、お母さんごめんなさいです。
だって、母は母の愛し方で一生懸命愛してくれていたのに、
それに気づかず、愛されてない、愛されてない、と
文句を言っていたのですから。
この言葉が、実際にどういう意味なのか、当時も今もわかりません。
でも、この言葉との出会いによって私は大きく変化したと思っています。
最初はその言葉を、相手が悪い、という使い方をしていました。
その毒で私はやられてしまった。私はかわいそうな被害者だ。
というような感じです。
でも、親が毒って、じゃあ生まれた私も毒なの?と思ったのです。
生まれたときから毒って……これもショックですよね。
確かに母はかなり強烈な個性の人で…
なかなか尋常でない部分を持っていました。
でも、それはその人の個性だし、おそらくそれなりの理由があるわけです。
そして、他人ならそういう人には、ふ~ん、っていうだけのこと。
それが親だから、ふ~ん、って思えない。
どうしてだろう?
ふ~んって思えない自分がなんだかかっこ悪くて、
もっとかっこよく生きたいと強く思いました。
私が嫌だと思うことは、私の見方、感じ方を変えたら変化があるのかな…?
自分の見方が変わることで、もっと楽になるのかな???と思ったのです。
とはいっても、許せない部分、簡単に納得できないものがあります。
簡単にいかないからこそ、家族になったのかもしれません。
ここに何かクリアするものがあるんだろうな、って思いました。
毎日、どうしたらよいのかな、と考えていました。ずっと考えていました。
そして、ある時「愛の需要と供給のミスマッチ」なんだと
気がついたのです。
ほしいものと、与えられるものが違っているだけ。
つまり、愛情の形は人それぞれってこと。
それを人のせいにしたり、自分のせいにしたりするから、
ややこしくなって、こじれてしまう。
母も私も、みんなみんな、毒じゃない!
そう気がついても、すぐに毎日が楽になったわけではないけど、
でも、原理がわかれば、あとは活用していくのです。練習です。
気がついてから約一年半が経った今、
やっと少しずつ練習の成果が実ってきたように思います。笑
そして、自分で自分を苦しめていたんだ、って気がついたら、
同時にそれは、自分を幸せにすることができるということだったのです。
そう。脳みその有効活用です。
苦しめていた思考を、違う方向、明るくなる方向に持っていけば、
楽になる。
最初はこじつけでもなんでも、だんだん慣れてくると面白いですよ^^
そんなこんなで、結果的にはその衝撃的な言葉との出会いが、
私を幸せに導いてくれたのです。
人生って面白いですね。
今日も読んでくださってありがとうございました。
Vol.4【変化の波に包まれる】
ようこそ、Lotus Gardenへ。
こころのアトリエ・そらいろcafeのみやです。
自分のコラムを改めて読み直すと、たった数週間のことなのに、
自分がとても変化をしているなぁと感じます。
今年は大変化の年なのでしょうか。
多くのことが変化の波に包まれていきます。
それが将来どう転んでいくのか。
未来を想定して、損がないように動くことは、
自分を縛っていることと同じです。
自分の未来の可能性を縛っているのです。
変化するとき、怖くて、おそろしくて、
もう取り返しがつかないような思いが湧いてくるかもしれません。
その恐怖から、現状維持を望むかもしれませんが、
変化の波に包まれているときには、逆に混乱を招くかもしれません。
違和感を覚えるかもしれません。
変わる時を迎えたのなら、
その波に素直に包まれてみるのもよいかと思います。
一見、損をしているように思えることも、
違う側面をもたらしてくれることでしょう。
損得は目先だけ、私が見えるものだけで勘定できるものではないのです。
時代も、人の心も変化するものです。
それを責める理由はありません。必要もありません。
宇宙は変化するということが不変の真理である、と聞いたことがあります。
それなら、変化しているということは、
宇宙の法則に則っているということなのでしょう。
それでも怖くて進めない時もあるでしょう。
変化を受け入れられない時もあるでしょう。
でもちょっと想像してみてください。
どちらが後悔しないか?
どちらがしっくりくるのか?
どちらがもやもやしないか?
片方の決断をした時、どちらがそれを受け入れやすいだろう?
ごまかそうと思っても、自分はごまかせません。
もちろん、哀しい別れ、辛い別れになってしまうこともあるでしょう。
そういう時は、少し見方や考え方を変えてみませんか?
私の人生は私のものです。
せっかくの人生ですから、しっかりと自分自身のみちを
生きていきたいですよね。
大切なのは、「私はどうしたいんだろう」と問うてみることです。
言葉を変えるのなら、私は何を望むの? 何をどう感じるの?
それで私は幸せを感じるか、もやもやしないか、
心のどこかに引っかからないか。
何が引っ掛かるんだろう。何が怖いんだろう…
最初はわからないかもしれません。余計に混乱するかもしれません。
でも、自分は何がしたいのかな、どうしたいのかな、と
ちょっと立ち止まってみる。
どこを探すより、自分の中が一番答えを知っていたりします。
その答えに気がつくのに、時間がかかるかもしれませんが、
それを見つけることが一番なのです。
一度決めたものを覆すことになるかもしれません。
それでも、それが自分の中でしっくりくるのなら、
その時はそれでよいと思うのです。
遠回りをしてもいい。
じっくりと自分の中をのぞいてみると、自分の答えが見つかると思います。
そして、少しずつ、その答えを大切にしてあげる。
自分の心の声をたいせつにしてあげる。
私の人生は私のものだから。
私を生きていこう。それだけなのです。
こんな当たり前のことに、ずっと気がつかずに生きてきた私。
もっと早く気がつけばよかったと思いますか?
いいえ。
今までの不器用さがあったからこそ、の今なのですよ。
不器用、万歳!です(笑)
そして、もし、自分で難しいときは、プロの手を借りるのも
一つの策ですよ。
読んでくださってありがとうございました。
Vol.3【自分からの視点をもつ】
ようこそ、Lotus Gardenへ。
こころのアトリエ・そらいろcafeのみやです。
前回の続きです・・・
愛の需要と供給のミスマッチ。 というお話です。
今回はちょっと熱血です!
愛され方、大切にされ方でも、いろいろあるとは言っても、
常識の範囲を超えた、尋常ではないこともあります。
虐待、というものに当てはまることもあります。
肉体的な虐待、精神的な虐待、性的な虐待、心理的にも、経済的にも、
社会的にも、これって虐待だよね、ということがあります。
そんなに簡単に「需要と供給のミスマッチなのね」
なんて思えないですよね。
許せないこと。
理解を超えること。
納得できないこと。
それを許しなさいとか受け入れましょうとか、理解するべき、
相手の背景を考えなさい、なんて言いません。
許せなくっていいと思うんです。
ただ、自分の心の方向として、この愛情表現はおかしい、間違っている、
それでも、この人の表現だったのかもしれない、
という一つの考え方を持ってみること。
自分のために。
相手のためじゃない。
傷ついた自分のために。
大好きなはずの親になぜこんな仕打ちを?と思うこともあります。
でも、相手は自分を生んだけど、イコール親として、
人間として完璧ということではないのです。
親だから、という言葉ですべてを片付けられることばかりじゃない。
人は親を選んで生まれてくる、と聞きます。
いや、私はぜ~~ったいに!この人選んでない!!と
超絶拒絶をしていました。
親に感謝?なんで?どうして?と号泣したことも幾度となくあります。
でも、今になって思うのは、
「わたしの成長のために」この人は必要だったのだな。と。
相当、成長します!と張り切って意気込んできたのだなと、
想像すると笑ってしまうけど、なかなか険しく厳しくエベレスト級だけど、
その分それだけかなりたくましくなったと思います。
あくまでも「私」視点です。
結局、人生は私のものなのです。
私がどう生きるのか、ということなのです。
受け止め方も感じ方も、すべて私の手にゆだねられている。
それが「わたしの人生」なのです。
だったら、自分の気持ちが楽になるように、
自分の想いを、自分の好きなように変えていけばいいってことですよね。
もちろん、それでも許せない、納得できない、
という気持ちがあるのも分かります。
あんなことをされたのに許すなんて!私の人生はこんなにされたのに!って。
うん、自分がつらいと思ったことをなしにする必要はないです!
ただ、新しい視点を持つことで、自分が少し楽になるとしたら、
どうでしょう?
すぐにできなくても全然OK!ゆっくりやっていけばいいと思うんです。
自分のための、自分に優しい、新しい視点を持ってみる。
辛いことはつらい、そのうえで、別の視点があるって知ると、
少しは「自分が」楽になると思いませんか?
しかも、残念なことに、相手はあなたが思うほど、
こちらがつらいと思っていることを理解していないんです!
え?そんなことで傷ついたの?なんて言われたりするんです。
がっかりだと思いませんか?笑
だからね、その人のおかげで、十分経験させてもらえた。
人間として成長させてもらえた。
と無理やりでいいから、割り切ってみる。割り切れなくてもいいから。
そういう考え方や視点って、かっこいいと思いませんか?
自分の人生だから、自分なりに楽しんでいけたら、いいですよね。
もう今まで十分、辛かったんだから。
あなたの人生は、これからです。
最後まで読んでくださってありがとうございました。
Vol.2【愛のミスマッチ】
ようこそ、Lotus Gardenへ。
こころのアトリエ・そらいろcafeの みやです。
突然ですが、みなさんは、親との関係は良好ですか?
私は同居している実母との関係が年々悪化し、
どうしたら良いかわからなくて悩んでいた時期が長くありました。
そもそも子どもの頃からずっと、母から嫌われている、
愛されてないと信じていました。
でも、この「愛されていない」と感じたのは、
自分の望む接し方を母からもらえない、
というところから来ていたのです。
私が望む母と子の関係とは全く違うものだったのですね。
それは私にとっては非常に残念だったけど、
逆に、母にとっても残念だったと思います。
今でこそ、親と子は別人格、子を尊重しよう、
なんていわれていますが、当時は昭和。
その母を育てた祖母は明治の人。
戦後間もなく夫を亡くし、身寄りのない疎開先で、
女手一つ子どもを育てた人です。
そう知れば、和気あいあい、笑顔あふれる家庭より、
しつけや上下関係に厳しく、よそ様に迷惑をかけない、
自分のことよりまず他人様、という、
祖母から母へ伝わった子育ても納得できますよね。
私の子どものころ家庭では、
一般的な会話といえるものはほとんどなかったように思います。
食事中は、勤め先の残念な人のことや、誰かに対するダメだしが
おかずでした。
でもね、これも「親の愛情」のひとつなのです。
わが子が世間に出たときに、後ろ指を指されないように、
いま周囲にいる残念な人たちを参考にして学ばせるという。ね。
また、同じような理由で、子どもにもありとあらゆることに
ダメ出しをする。
愛情が深いんです。
ただ「私のほしい愛情の形」と「母が与える愛情の形」は違っていた。
不思議なことに、全否定された私でしたが、
それでも母が好きだったのですよ。
もちろん、家庭が複雑だったので、
この人に捨てられたら生きていけないぞ!
という危機感があったのも否めません。
それでも、やっぱり好きだったんだなぁ。
お母さんが好き。
だから、四六時中考えることはお母さんのこと。
喜んでもらえるように、褒めてもらえるように。
そして私の望む愛し方をしない母を見て、
私は愛されていない、と思いました。
よくよく考えれば、まるで顔色をうかがうかのようにしている
子どもなんて、大人からしたらイラつくもんですよね。
ただ何度も言うように、私の希望と違ったからと言って、
それがイコール愛されてない!ではないんです。
そして、それを恨んだり憎んだりするのは、
こちらの心の作用なだけである、ということ。
そう、可愛さ余って憎さ百倍、のように。
また私の場合は、素直じゃないということもありました。
ただただ、愛してほしくて、頑張って、ひとりで奮闘して。
そして私の願うものがもらえないといじけて、ひねくれて。
う~ん、なんか可愛いなぁ。
さらに「お母さんが好き」が、
私側から、なかなか認められなかったりします。
だって、あの人は私を嫌っている。
いつも私を認めないし、ダメにしようとする。
私はいつも邪魔されてきた!!!
でもそれが愛情の表現だったのです。
わが子の人生を母なりにより良くするために一生懸命しているだけ。
一番重要なのは、
愛し方や愛され方の形って一つじゃないということなのです。
お気に入りのコップを、お気に入りだからと毎日使う人もいれば、
棚に飾っておく人もいる。
箱にしまって時々眺める人もいる。
遠くから見守ることが愛情だと思う人。
それをほったらかしにされた!と受け取る人。
信頼してくれていると思う人。
いつもそばに置いておきたいと思う人。
それを束縛と思う人もいれば、安心だと感じる人もいる。
心配する人もいれば、信頼する人もいる。
そのどちらも、愛情表現なんだよね。
そしてもっと違う愛情表現の人もいる
(間違った、ゆがんだというものもあります)。
お母さんもあなたが好き。
あなたもお母さんが好き。
表現の形が違った。
そう、愛の需要と供給のミスマッチ、ということです。
その話は、、、続きます。
Vol.1 【幸せの種】
初めまして。
私は愛知県でパステルアートと曼荼羅アートを描きながら、
あなたの花を見つけるお手伝いをしているメンタルセラピストです。
こころのアトリエ「そらいろcafe」のみやと申します。
今日を昨日より少しだけ気楽に、軽く明るく過ごしていけたらいいな、
そして、喜びも幸せも実は、自分の心から始まる、
みんな「幸せになる力」を持っているんだよ、という思いで、
コラムを書いていこうと思います。
このコラムのタイトルは「Lotus Garden」(蓮の花の咲く庭)です。
私は蓮の花が好きです。
蓮の花の姿は、凛として、清らかでどこか潔さも感じます。
実物を見る機会は少なくても、画像やSNSなどから楽しむことができます。
最初に蓮の花に興味を持ったのは、その姿の美しさよりも、
蓮は泥水の中から美しい花を咲かす、という話を聞いたことから。
その泥水が汚いほど、大輪の花を咲かせる、
またその泥に穢されることなく美しい花を咲かす、という話。
私はその話にとても感激しました!そして光を見たように感じました。
当時、苦しく辛い毎日の中で、どう生きたらよいのか、
その苦しさから抜け出せるのか、どうしたら「幸せな毎日」を送れるのか、
ただただもがいていたから。
そんな私にとって、この蓮の姿や話は、
泥沼のようなもがきの中にいても、花を咲かせられる、
それも穢れることのない美しい花を咲かせられる可能性がある!と、
文字通り、暗闇に一筋の光が射したように感じたのです。
勝手に私のための話だ!と心の支えにしちゃいました。
そして、それから、私の中には、私だけの蓮の花が咲いていると
思っています。
蓮の花の話を知ってから、すでに15年以上が経ちます。
今、私は「私の幸せ」というものを少しずつ感じて生きています。
それは何一つ不自由なく、何一つ問題も起きず、
また「悟った」生活ではありませんが、
私は私として、私の人生を生き、私の生命を生きています。
不器用でうっかりで残念な部分もたくさんだったり。
でもそのうえで私は「私」を生きています。
それは、とても幸せなことだと思っています。
もし、今あなたの毎日が苦しくて泥沼のようなら。
あなたにはあなたの花が咲く、
あなたという蓮の花が美しく咲くのだと知ってほしいな。
その泥沼こそが、あなたを美しく大きく咲かすものであり、
その泥にまみれることなく凛として自分という蓮の花を
咲かせることができるのです。
蓮の花の姿に光を見た私は、自分の中にまさにその蓮の花が咲き誇り、
今では、泥のようだった日々も宝であったと思っています。
そして今、いろいろな経験の中で、その経験を「苦しみ」ととるか
「幸せの種」ととるか、自分の「幸せになる力」を試されてる、
そんなふうに思うのです。
そんな想いで「Lotus Garden」を綴って行きたいと思います。
さぁ、次回から、私は何が苦しくてつらい毎日を送っていて、
そしてどうして今は「幸せになる力」なんてことが言えるようになって
いったのか、そんなことを書こうと思います。
どうぞよろしくお願いします。